とねりの庭

下々ノ者ノ下ノ庭


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とある編集者のひとりごと。

あらためて思う。オレってバカだなぁ、と。
お先しますと職場を後にして、その足で編集部へ入り、また同じくらいの時間仕事と同じ作業をする毎日。
仕事では決して許されない過剰な時間の掛けようも過度な演出も、好きに思う存分できることに幸せを感じる自分がいる。
どんだけ好きなのよ、と。
まったくバカだね。

さ、今夜もまたバカ祭り、はじめますか。

本当に好きなのは動画編集じゃないんだ。
本当に好きなのは、Guff。


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文化。

今日はとなり町の文化祭を撮影してきた。
文化祭といっても展示モノではなく、ステージ発表モノ。
内容はベンチャーズコピーバンドから歌謡舞踊、郷土芸能まで様々で、およそ3時間のボリューム。

撮影しながら思ったことがある。
演歌界というものの将来は、世間で言われているよりも、それはもうとんでもなく暗いのではないだろうかということ。
以前から言われていることではあるけれど、あらためて考えてみたら、言葉は悪いが、本当にお先真っ暗に思えた次第で。
氷川きよしだジェロだと言っても、今の若者が聴いたり買ったりしているとはとても思えないし、我々がどんどん歳をとっていっても、嗜好が変わるとは思えない。
なんの裏付けもない勝手な想像だが、今50歳の人もほとんど聴いてないんじゃなかろうか。60歳でもあやしい。支持者はそっからさらに上の人たちなのではないか。いや全くの想像だが。
やがて居酒屋の経営者も若くなり、「おでん屋のおばちゃん」だって我々の世代になってゆくだろう。その時に果たして有線で演歌が流れているのだろうか。そんな風景はまったく想像ができないし、好んで通う客もそういないように思う。

果たして来るのだろうか。
歳の近い友人が演歌を聴きだしたり、カラオケで歌うところを目撃する日が。

演歌ゾーンのない紅白も、いずれは。


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流れ。

今年は仙人峠を経由して遠野へ秋を観に行こうと計画していた。
結局それも叶わないまま11月も折り返しを過ぎ、気がつけば晩秋。
まさに「気がつけば」という表現がぴったりだ。

時間の流れは普遍。
自分が走っていても止まっていても、時間だけは等速で進み続ける。

浅い川の中に立つことを想像する。
下流を見るように、上流に背を向けて川の中に立つ。
前方へと流れて行く足元の水と、立ち止まった自分との相対的な速度は早い。
水の流れに置いてきぼりにされている状態だ。

今度はこの浅い川を下流に向かって走ってみる。水の流れと自分との速度の差は、立ち止まっている時と比べて小さくなり、つまりは相対的にゆっくり流れている状態となる。
しかしこれは自分主観の速度であり、実際の水の流れる速度は変わっていない。あくまでも、体感。

一方、時間の流れはどうだろうか。
日々に「追い立てられ」ているような、いわゆる「走っている時」には、あっという間に時間が過ぎているように感じるものだ。
これは川の流れとは真逆の感覚といえるが、立ち止まっているときに感じる「置いていかれる」ような感覚は川の流れと同等だ。

同じ「流れ」ではあるが、川と時の流れは同じではない。
川は川でしかないが、時は時単体で流れているのではなく、周りの風景も一緒に流す。

日々に追われるということは、時の流れに背中を押されているということ。
言い換えるなら、船。
船と時の流れの速度差が相対的に小さくても、風景を見渡せば自分の速度がいかなるものか解る。
これは、時間が止まらない以上、立ち止まることはできないということでもある。

流れに乗ると感じるか、流されていると感じるか。
どちらにしても、「流れ」を意識しなければ感じることはできない。

「気がつけば」。なるべくなら使いたくないものだ。


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あまり眠くない理由

ほとんど寝ない日々を乗り越え、とうとう締切ギリギリの朝7時に入稿することができた宮古市発のフリーペーパーGuff vol.2の原稿。
それまでの日々がそうだったように、入稿を果たしたその後も当然のことながら仕事だった。
その仕事もきちんとこなし、どのくらいぶりだろう?と思い返しても思い出せないぶりとなる「その日のうちの帰宅」を果たした。
2日ぶりの風呂に入り、これまたどれくらいぶりか忘れてしまった自宅飯を食べながら、ひと月ぶりに呑む熱燗は感動的に旨かった。

腹も膨らみ、こたつにごろりと横になると、いつの間にか眠ってしまった。
ふと目が覚め時計を見ると、まだ22時前。ずいぶんと眠ったような気がしたが、一時間しか経っていなかった。
食べ終わった食器を片づけ、歯を磨きながら原稿は全部揃っていただろうかと気になったが、気にしてもなにもならないことに気づき、考えるのを停止した。

布団に這入り、部屋の照明を落とす。
22時に寝るなんて、数十年ぶりのことだろう。これからもまずないに違いないだろうし。
年季のはいったガラケーをスライドさせ、していなかったメールの返信を済ませる。
facebookをチェックし、いくつかのいいね!と、いくつかのコメントをかいt

まだ目覚ましのケータイアラームは鳴っていないが、目が覚める気配がした。
毎朝世界を呪うことを忘れない自慢の低血圧だが、この日は違った。やはり掛け布団もない固い編集部の床とは違う、柔らかく暖かい布団でのゆっくりした睡眠は格別だったのだろう。いつもの悪い朝ではない感じのまま覚醒できそうだった。しかし目を開けると目が覚めてしまう(低血圧ならでは表現)ので、目は閉じたまま今何時くらいか、今日はどんな作業をすればよかったか、そうだ、もう急ぐべきことは多くないのだ、などと幸せに似た気持ちを噛み締めた。
さて、ぼくはあとどのくらい寝られるだろうか? と一応壁にかけてある時計を薄目でそっと見たら1を過ぎたあたりに短針が居た。
カーテンを見遣ると、そのすき間から漏れている光の色は深夜1時のそれではなかった。これはかの有名な13時だ。

……

慢性低血圧vs大寝坊のカードほどの泥仕合は世界を見渡してもそうないだろう。
バタンバタンと大音を立てながらタンスを開けたり閉めたりしつつ、撮影や取材のような重要な仕事がなかったか、一向に動く気配のない脳みそで慎重に慎重に検証。
ケータイを開くと電源が落ちていた。壁掛けの時計による寝坊ドッキリの可能性に淡い期待を抱きながら充電器をつなぐ。起動するまでの間に服を着つつ、上司への言い訳という名の適度なウソを数パターン制作を試みるも、すべてゴールデンラズベリー賞。起動したケータイを見ると、規律正しい数字で13:18とあった。上司には素直に謝罪することを決定し、会社に連絡を入れた。
そしてぼくは気が楽になった。

今振り返ると、あのfacebook in お布団の最中に寝オチし、そのせいもあってケータイの電池がなくなったのだろうが、重要な仕事がなくて本当によかったと思う。
そして22時から13時までの睡眠すべてが熟睡だったことと、そこに微塵の寝過ぎ感もなかったことにいささか驚いたのであった。

そんな感じのダメおっさんが関わったGuffは、今月11月11日に発行されます。
どうぞご期待ください。

ぼく以外の編集部員はちゃんとした大人です。